ファインマンの教科書には、ミクロな観点から摩擦を考察した、もっと踏み込んだ記述がある。静止摩擦と動摩擦の力学的な差異がそこでは説明される。
静止摩擦は、いわばアスペリティ同士の「引っ掛かり」とみなせる。表面に水平な方向に力がかかっても、トゲのようなアスペリティが歯止めとなって静止摩擦力を生み出す。とはいえ、水平方向の力がアスペリティを乗り越えたり、引きちぎるほど強くなれば、ついに物体は動き出すというわけだ。アスペリティが「破壊」される直前の状態(物理では閾値とか臨界値ともいう)が「最大静止摩擦」である。
最大静止摩擦が発生している時、重力による斜面に沿った方向に進ませようとする力(\(mg\sin\theta\))と、摩擦力Fは釣り合っている。したがって、先の考察で設定した座標軸を用いると
\[\begin{equation}
mg\sin\theta - F = 0
\end{equation}\]となる。摩擦力 Fが垂直抗力に比例すると「近似」すれば(あえて「近似」という言葉を使った)、
\[\begin{equation}
F=\mu_0 N
\end{equation}\]
である。\(\mu_0\)は最大静止摩擦係数である。また、y軸方向の釣り合いから
\[\begin{equation}
mg\cos\theta - N = 0
\end{equation}\]
である。これらを組み合わせて\(\mu_0\)について解くと、
\[\begin{equation}
\mu_0 = \tan\theta
\end{equation}\]
を得る。
ということは、板を傾けて角度を測定するだけで\(\mu_0\)が測定できる、ということになる。ところが実際にやってみるとそうは問屋が卸さないのだという。
まず、水平の状態から板をどんどん傾けていく。滑り出すギリギリまで傾けていって、よしここだという場所で傾斜を固定する。角度を測れば\(\mu_0=\tan\theta\)と最大静止摩擦係数が測定できたように思える。そこで物体を板から外す。このとき、板の角度は変えないのが重要である。外した物体を友人に手渡しし、再度、板の上に乗せてもらう。最大摩擦が生じている角度であるから、物体は滑らないはずである。ところがである。物体はゆっくりと動き出してしまった。が、しばらく滑って再び止まった...と思ったら次第にずれ始め、今度は勢いよく滑り出し...そしてまた止まったのである。
これいったいどういうことなのかというと、最初の測定地点(物体が置いてあった位置)におけるアスペリティの状態に対して最大摩擦係数を測ることができたのは確かである。ところが、友人が置いた場所は、最初の測定地点と違う場所だったのだ。どんなに丁寧にヤスリをかけても、ミクロのアスペリティの状態を場所によらず均一にすることは不可能である。したがって、友人が置いた場所ではアスペリティの状態が滑りやすい状態になっていて、物体が動き出してしまったというわけである。ところがしばらく移動して、最初の地点と似たようなアスペリティの状態になっている場所に到達したので、物体は再度静止したのであるが、それでもほんのわずかだけアスペリティが弱く、だんだんずれてしまったのである。動き出した物体はアスペリティの弱い部分を勢い良く滑り続けるが、最後にアスペリティの状態が非常にひっかかりやすい場所に到達し、ついに静止したのである。
つまり、摩擦係数というのは「ほぼ場所によらず一定」であるが、「厳密に一定ではない」ということである。
一方、動摩擦は、アスペリティが破壊されたり、乗り越えられたりしながら、物体が滑っていくときに生じる。破壊のためのエネルギーや、乗り越えるためのエネルギーが余分に必要になり、これが進行方向に物体が進もうとするのを妨げるのである。アスペリティが破壊されれば、物体の表面には「傷」が生じるはずである。ファインマンの教科書には、表面を滑らかに磨き、表面を綺麗に洗浄したガラス板同士をよく密着させたあと、力を加えて無理やり滑らせると、ガラスの表面に細かい擦り傷のような損傷が発生する、と書いてある。アスペリティが破壊され、原子が弾き飛ばされた結果である。原子レベルで考えると、動摩擦が発生している状況というのは、かくも「破壊的」な現象なのである。もちろん動摩擦も場所によって変動するため、動摩擦係数を「一定」とみなすのは「近似」である!
アスペリティの分布が変化したり、物体の表面の形が場所によって変動するのは、なにも磨き方が足りなかっただけではない。不純物が付着していたり、表面が酸化していたり、と様々な要因から、場所にって摩擦係数が変化することが考えうるのである。
では、これらの不純物を完全に取り除いてしまったら、摩擦係数は一定値を取りうるだろうか?この実験を実行するのは大変だが、半導体を製造するようなクリーンルームの中に持ち込み、真空容器に封印し、などと考えうる最高の実験技術を駆使し、なんとかその状態が実現できたとする。板としては、木製の板ではなく、例えば銅版と銅のサイコロのように、同じ金属同士で滑らせてみる。すると、摩擦係数は綺麗に角度θを用いて測定できるようになるだろうか?
答えは否である!このように純粋な金属板同士を滑らせて、傾斜角から最大摩擦係数を測定しようとしてもそれは不可能なことなのである。なぜかというと、傾斜角をどんどん傾けていっても、一向に物体は滑らないからである!滑るどころか、垂直になっても(θ=90度)、物体は板に張り付いたまま滑らないのである。これはアルミニウムでやっても、鉄でやっても、銀でも金でも、同じ結果になる。つまり、良かれと思って理想の測定状態に近づけた結果、測定不能になってしまったのである。
これを理解するには、固体物理のことを思い出せば良い。規則正しく並んだ原子は「結晶」という固体状態である。結晶と結晶を貼り合わせたものは、より大きな結晶となり、2つの領域の「境界」というものが消えて無くなってしまうのである。不純物が表面にあることで、物体は「境界」の位置を知り、そこを境に滑っていたのである。ところが、不純物がなくなることで、境界がどこかわからなくなり、結晶が広がっただけのようになってしまい、逆に滑らなくなってしまうのである。通常、結晶とは硬い固体状態であることを多くの人が知っているだろう。
以上のことからもわかるように、摩擦の実験を行うと、かならずしも高校物理の問題のようには事は進まないのである!
例えば、「最大摩擦係数\(\mu_0\)」が与えられ、その値から傾斜の角度\(\theta_0\)を決める。念のため、物体が滑り出さないように\(\tan\theta_0 < \mu_0 \)となるように角度を少し小さめに設定しよう。ここに物体を置いたとき、物体は(運良く)斜面に静止したとする。次に少しずつ角度を大きくすると、物体は斜面を滑り出すはずである。高校物理に基づいて運動方程式を組み立てると,
\[
ma = mg\sin\theta - \mu'mg\cos\theta
\]となる。 すなわち、物体の加速度は一定となり
\[\begin{equation}
a= g\left(\sin\theta - \mu'\cos\theta\right)
\end{equation}\]
と一定値をもつことになる。\(\mu'\)は動摩擦係数である。したがって、この物体の運動は等加速度運動の公式に従って
\[
x(t) \sim x(0)+\frac{1}{2}g\left(\sin\theta - \mu'\cos\theta\right)t^2
\]
となると答えれば、大学入試では点数が稼げる。しかし、現実の物理ではこの式のようにはならない。というのも、上述したように場所によってアスペリティの様子が変わるため、等加速度運動になるとは限らないのである。場所によってはゆっくり滑ったり、突然早く滑り出したり、ほとんど止まったり、と複雑な運動をするのである(つまり加速度は時間の関数になる)。
0 件のコメント:
コメントを投稿